昭和49年11月06日 朝の御理解
御理解 第3節
「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」
昨日が壮年部会、一昨日が神愛会でした。ここの関係の先生方がみんな集まっての共励会ですが矢張り私は、こういう変わった事を先生方に聞いてもらったんです。御道では例えば自分の御神縁を頂いて、信心の稽古をさせて貰いお育てを頂く所を、親教会とかそこの教会長を親先生と言う。そこで親不孝の会を作ったらどうだろうかと。親不孝の会を作る。神にいわば「親に孝行をして神に不幸をし、そして親に孝行しておる氏子がある。」「神に不孝をして親に孝行をして、親に不孝をしておる氏子がある。」
そういう意味で先ず親に不孝をする。勿論親に不孝をすると言う事はそれは肉親の親の場合も言えるけれども。親教会の親先生に不孝をするそして後親孝行の出来る、いわば真の親孝行の出来る事の為に親不孝の会と言った様なのを持つ事としたらどうだろうかと言っておる。宮野の安武先生もそう言う事でしたどうですか甘木の信心の真髄というか、甘木の親先生の信心の一番素晴らしい所はどこを頂かなければならないかと。
箇条書き的にでもいうなら、どう言うとこですかと申しましたら、一も二もなしにこう言われました。親教会に尽くすこと。親先生を尊ぶこと。と言われますですね。成程初代の安武先生は、親教会である小倉の教会に、確かに尽くされました。師匠である所の親先生を、それこそ神様のように扱われました。そしておかげを受けられた。だからそこの所をやっぱり、甘木の信心の流れを組む者は、親を大事にしなければいけない。親教会を大事にしなければいけないです。
いわゆる師匠を大事にしなければいけない、親教会を大事にしなければいけないとこう言うわけである。だから実を言うとね安武先生、私はそれが甘木の親先生の信心のすべてではなかったと思う。もっと他のところに信心の眼目というものはおかれておった。今日の御理解で言うと、天地金乃神と申すことはと言うておられるが、天地金乃神様と言う方が、どういうお方であるかと言う事を知られた。天地の大恩を感得された。信心が進めば進むほどです。
天地の親神様天地金乃神と申す事はと言う事を、誰よりもはっきり分かられた。信心が進み、信心の徳が力が受けられるようになったら、当然の事として親教会自分の師匠の事親教会の事は、大事にしなければおられなさらなかった。だからそこの所をです。只親教会に尽くしさえすれば良い。親先生を大事にしさえすれば良いと言う様な人が、おかげを受けておるかと言う事です。大してほんなら、甘木の初代のような御比礼を受けておられると言う所は無いじゃないか。
もしあるとするならばです。それはしなければおられない、親教会に尽くさなければおられない。親先生を尊ばなければおられないと言う程しのものをもって、親教会の親教会長先生に尽くしておられるのじゃないだろうか。只そうしなければならん、それが信心だと言う所にです。そしたらすぐ次の福岡のほうから来ておりました、ある先生が発表しておりました。私共は三代目です。ですから親教会にどれほどお世話になったのか、また信心は親から教えて貰っとるから。
現在の親教会長先生からは信心は教えて貰ってないから、全然実感が湧かないち言う只形の上でせねばならんと言う事になっとるからしておる。それこそ「手はつけど目は上を向く蛙かな」であって、御結界の前に出て今日もおかげ頂ましたと言うて、親教会にお参りして言うけれども。心では一つもそう思ってないこういう矛盾をです。本当に打破していくと言う事は確かにここの先生が言われる様に、金光教の革命がどうでも必要だと言う事を言っております。だから先ず一つ親不孝の会を作らなければいけない。
これは私自身のことを言うても、私が神様に色々お知らせを頂く様になり、やむにやまれん信心させて貰っておる時に、そういう信心は間違っておる。そういう信心は無いと言われた。それでもそれば続けていくならば、もうあんたは親でもなからなきゃ子でもないという風に言われた。それは親子だからこそ言える事でもありますけれども。その時に私はどう言うたかというと。親先生とにかく向学心に燃えた子供がもう親から学費を貢いでもらう事は要らん。東京なら東京に出て暫くみっちり勉強したいと思う。
自力でしたいと思う言うなら苦学でもしたいという思いでおりますから。暫く長い目で見とって下さいと。それを最後に丁度丸五年間、親教会には御無礼致しました。親に不孝をしたわけです。その五年間の間はもう本当に親先生も心配をされただろう、また悪うも思われただろう。ま、言われもなさっただろうと思うです。本当に善導寺の三井教会あって大坪さんがあるのに、もうそれこそ義理も人情も知らん男だと言われもし、思われもしただろうと思う。
その間五年間例えば私は不孝をしたけれども。今私が親孝行が出来とるとは思わんけれども、例えば今度あちらでご普請があるというのに、これはねおかげを頂かなければならんから親先生を大事にする。おかげを頂かなければならんから親教会に尽くすと言った様なケチなもんではなくて、もう当然のごとして、私はおかげを頂きたいと思うという話をしました。おかげを頂くためには、親教会ば大事にせにゃならん。
お徳を受けるためには、師匠を大事にしなければならない。ほんならそういう生き方の人が、甘木に沢山ありますがです。みんな甘木の方達はそう思い込んでおりますがです。果たして、親に尽くしよる師匠に尽くしよる。いうなら親教会に尽くしよる人達が、どの程度のおかげを頂きよるか。ただ堂々巡り的なおかげではないかと。これはひとまず先ずは、親に不孝をしてそして本当の所を分からせて貰うて、信心の力を受けてくれば、信心と言うものは分かれば分かるほど。
力が付いてくればくるほど親は大事にしなければおられんのであり、親教会は大事にしなければおられんと言う事になってくるんだ。それに親教会を大事にすれば、師匠を大事にすれば、おかげが受けられると言った様な事で、いかに親を大事にしたって、ほんな事にはならんのです。まだそのことに付いて私は、色々申しましたけれどもです。ですから天地金乃神と申す事はと言う事を、先ず分かると言う事です。天地金乃神様と言う事はどういうお方かと。
そこで天地の親神様、いわゆる天地の心を知ると言う事。天地には天地の心がある。いわゆる天地の法則がある。天地には一つのそういう定めがある。その定めを、天地の法則を知ると言う事は、天地の親神様の心を知ると言う事である。だからその法則に基づいた生き方をする。その法則に基づいた生き方の中に、親を大事にしなければ、例えば信心をして親をろくそにどんする人なら、おかげは受けられんです。その一大法則を破っておるからです。親に心配をかけるようなもんな、おかげ受けられんです。
親に孝行したいだけじゃなくて、親に孝行がしゅうごつしてたまらんと言う人なら必ず徳を受けます。それが天地の心が分かり、法則を分かって来るとです。親も大事にしなければおられんのである。そこん所を先にしなければいけない。昨日は壮年部会でした。壮年部会で、久留米の石井さんが、こんな話をしておりました。自分の命が神恩を悟る。そこに、命がそのまま有難いというものになってしまう。
神様の大恩を命で捕えなければいけない。同じ事柄でもこの位有難いという人もありゃ、こんなに有難いという人もある。もうそれこそこうして有難うして、有難うして応えんと言う人もあるおんなじ事柄で。今日目覚ましのおかげを頂いたと言う事でも、一つも有難いと思うておらん人もある。けれども今日目覚ましのおかげを頂いたと言う事はです。もう、それこそ何よりも素晴らしい、有難い事としてお礼を申し上げておる人もある。そこを命が悟らなければならないという意味の話をしてました。
それで私が具体的に言うならば、こう言う事だと言うて皆さんに聞いて頂いた。昨日教報が参りました本部から。その教報の中に甘木で修行された先生で、栗谷と言う先生が布教に出られ。自分が信心時代のお話が載っておりましたリュウマチ神経痛ですか。体の節々が痛むようです。それで甘木の金光様の事を聞いてお参りをさせて頂いた。その時分はずっともう朝からお参りがあってもう一日中親先生がお話をなさっておった。
そのお話をお広前の隅のほうからずうっと、次々と出てくる親先生のお話を拝聴する。ある日もやはり、そういう同じ事を繰り返させて頂いて、もう皆さんも帰られたから、自分も帰ろうと思うて、立ちかけられると。御結界から、親先生が、「栗谷さん栗谷さんこれから、あんたに対する御理解ばい」ち仰った。それからまたもう帰りかけとったけれども、お広前には誰もいない。親先生の呼ばれる御結界のそばに進み出ると「栗谷さん、あんた、こう言う事を知っとるか」と言われた「たこに骨なしなまこにゃ目なし」と言う事を言うが、あんた知っとるかち。
本当そう言う事を申しますなぁと。たこに骨がないと言うが、骨の無いたこは骨の病気は患わんばいと仰った。なまこにゃ目が無いというが、なまこは眼病すらも患う事は出来んばいと仰った。そん時にその栗谷先生が、翻然として悟られたと言うておられます。はぁほんに節々が痛い、骨が痛いというけれどもです。この骨があると言う事、頂いておると言う事が、先ずお礼を申し上げなければならなかった事に、翻然として気がついたというのです。私はそれを読ませていただいてです。
神様から直接いただかれての御理解というものがです。甘木の親先生の御理解と言うものが、それこそその人の命を揺さぶるようにして悟らせられた。翻然として分かったので、もうとにかくどうでもこうでも、天地の親神様の大恩を分からせにゃおかんと、揺すぶるようにしてその栗谷さんに説かれた。翻然として悟られた。はぁほんになまこにゃ目が無いから眼病は患わん。たこは骨が無いから骨の病気も患わん。人間は目もあり、骨もあるからこそ眼病も患らや、骨の病気も患うんだ。
先ず与えられておる、その事に対するお礼が、全然出来ていなかった事に気がつかせて頂いて、それから三年余りの信心でおかげを頂いた。おかげを頂いた時にはもう信心が分かって、御道の教師にでもお取立て頂くと言うほどしの信心に進んでおられたという話が出てました。天地の親神様の、言うならばです、この命この身体をです与えて下さってある。その与えられておるものにお礼を言わずに、ただ自分がちょこっとばっかり、どうかあるという事だけば、どうぞこうして下さい。
ああして下さいと頼む願うと言う様な事だけで、本当の信心とは言えないという意味の事を、喜代司さんが初め言ってます。天地金乃神と申すことはそう言う様な、天地の親神様の心が分かった。天地の親神様が本当に下さっておるものが、下さっておるものとして分かった時にです。その下さったものに対する、心からのお礼ができた。御礼の信心が出来たところからです。そうした難病もおかげを頂く事が出来た。そして愈々信心が分からせていただいて、人に道理の一つも説かせて頂けれるようになった。
最後に松岡さんが発表しておられました。最近右の腕がこう上に上がらない。上げると大変後ろにも廻らないし、上にも上がらない。神様にもお願いもして、お取次ぎも頂いてお願いもするけれども良くならん。ある時ふっと自分が気付かせて頂いた事は、本当親先生は私だんがこつを、いつも祈り願っておって下さるのに、親先生の事ば自分が願うた事があるじゃろかと気が付いた。それから自分の事は願わずに、ただ親先生がどうぞ健康でありますようにと言う事ばっかり願った。
そしたら親先生不思議な事に、こげん手も上がるごつなりました、手も後ろへ廻るごつなりましたというそのお話をなさっておられました。だからどうぞどうぞお願いします、お願いしますよりもです。そういう風に翻然として自分の命がです。親先生のご恩を悟った。翻然として天地の親神様の心が分かった時に、分かった時点から親神様の心に添い奉ろうとする信心ができて来る様になった。いわゆる本当の信心生活が出来る様に成った。「生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、」金光大神のお取次ぎによって、なぁにも分からんなりにでも、皆さんおかげを受けられた。
天地の大恩、ろくそにゃ分からん。取次ぎ者、金光大神の御恩徳も、まだ分からんなりにです。ただこうして下さいああして下さいで、おかげを頂いたのは願う氏子におかげを授けと、おかげを授ける事を、先に言うておられるからであります。ところがただ願うておかげを頂くという事だけに、もし、終始したならば、どういう事になろうか。その後には、理解申して聞かせと仰っておられるから、日々、私が、こうやって皆さんに、理解申して聞かせておるわけです。
それは何を聞かせるかと言うと、天地の心天地の親神様のお心を、皆さんに伝えておるわけです。ですから皆さんがです。お話を聞いただけではなくて、お話を聞きながら翻然として命がそのまま、天地のご恩徳を悟ると言う所にです。私は願いというものが置かれなければいけない。「末々まで繁盛致す事、氏子ありての神、神ありての氏子上下立つように致す」と、ここではそういう風に言っておられます。
天地の親神様というお方は、天地金乃神と申すことは、氏子人間おって神なのだと。人間が神様と言わなかったら、もう神様はあるも無いも同じ事。あるやら無いやら分からない存在である。私共がです天地金乃神様と言うて初めて、神様がそこにあるわけです。だからお前たちあってこそ私だとこう言う。まあ、それを、人間の上で言うとです。子供がある。親がもう私は、この子あっての私だとこう言う。
と言うほどしに子供を大事にしておる。そこでほんなら子供の方がです。そうじゃ子供あっての親だとと言う所に親不孝が始まる。俺がごたっとばお前がどうして産むかち言うて親に言うた人がある。俺がごたっとば産むからたい。と言うて親に文句を言うたと。だから、親としては子供あっての親ですから。子供としてはどう言う事にならなければならんかと言うと。親あっての私だと言う事にならにゃいかんのです。
神様は氏子あっての神と仰せられるけれども、私共は本当に神様あっての私共だという事になる。一本の野菜を作らせて頂くでも、私が耕して私が種を蒔いて、私がこのお野菜は作ったんだと言う所には、感謝もなからなければ喜びも無い。神様あなたのおかげで言うならば、天地のお恵みによって野菜が出来たというのですから、神様あなたのおかげでと言う所にです。神様が何のじゃろかいお前達が、種を蒔いたり、肥料を施したから立派に出来て、いいえ、神様のおかげで、いいえあなたのおかげでと、例えば、親と子が、そういうふうにお礼を言い合う世界がです。御道の信心なんです。
それを合楽ではです、合楽示現活動に参画すると言っております。合楽と言う事は、神様と氏子とが一緒に喜び合う楽しみ合う。お互いにお礼を言い合うと言う事が、合楽という事なんです。そういう世界を広めて行こう現していこう。それをここでは示現と言う。これは現とい事は、神仏が不思議な働きを示し現すことだという意味です。示現と言う意味はそう言う意味なんです。
ですから私共が、その働きに参画さして貰う。その働きに預からせて頂こうと言う事になる時にです。いうならば神様の、そうした不思議な働きを示し現して下さる事になる。私が、こんな事を言う様になりましてから、あれが八月ぐらいからですね。あの八月の夏の御大祭には、もうその印が見え出した。今度の教祖大祭などには、もう愈々神様が不思議な働きを示し現してくださる印が、あの沢山な参拝者の上に現れておる。
毎日毎日奇跡が連続するというのも、そういう働きが始まっておる。この頃の一日のお月次祭では、とにかくみんな一遍、立ち上がってから、前に進んでくださいというほどしに一杯だった。初めて、お月次祭としては、千三十四名の、その日はお届けがあっておる。今まで千名越さなかった。所が千名を越すおかげを頂いておる。これを神様の示現活動が始まっておると言う事を、私共が分からせて貰わなければおられんのだ。
成程神様が働きござるなと思わにゃおられん。それには例えば神様が働きござるけん、こちらはじっとしとけば良かと言うこっとじゃないです。私共はその示現活動に参画させて貰うと言う事。こういう例えば現在今合楽で言われておる、合楽示現活動に参画すると言う様な、生き方を身につけると言う事が、先ず第一だと言う事なのです。そのためには、先ず自分自身が助からなければいけない。
自分自身が有難い。命そのものが天地の大恩を悟って、有難いという心の常態を開かなければ、示現活動は出来ない。普通のお導きとは違う。合楽と言う事は極楽と言う事の、まあ一つ向こうの世界を合楽と言うのだと、私は言っておるように。だから先ずは私自身が極楽に行かなきゃならない。ほんなら私自身が極楽にいくと言う事は、私が天地の大恩を悟って日々をです。何を見ても有難い何を聞いても有難い。
それこそほんならリュウマチ神経痛を患うて身体が痛む。痛む事その事もです。矢張り生きておる印だから、痛みよるのであり骨があるからこそ、骨の病気を患うておるんだという時にです。それ前に言う事がありはせんか。その前にお礼を申し上げる事はありはせんか。そして後に、痛いなら痛い、痒いなら痒いをお届けして、おかげを頂かなければならんという事が分かってくる。そこに、天地の大恩をたどった時にです。もう私は極楽に行っておるのと同じ事だと思う。
何を見ても聞いても、天地の御恩恵の中に生かされておる、その喜びに浸ると言う事が、極楽なのです。信心ちゃこんなにも有り難いと言う事が分かって初めて、自分の頂いておる、もう一つ向こうの世界ことが分かってくる。昨日佐田さんが、以前ここにお参りをしておられました、日田の酒屋さん造り酒屋さんですが、麻生さんという方がおられる。その方が、今病気で由布院に入院しておられる。
半身不随である。右の手だけがようやく動く。沢山色々なものを書いたり、とにかく非常にこの宗教的な本を読む事が、大変好きな方であった。だかとにかくちょいと佐田さん、見てくださいというて、大きな箱にもうぎっしり、世界中の宗教書が、ここに集めてあるというぐらいに、沢山何年間の間に読破された。読んで読まれた。
日本の有名ないろんな宗教の本も、沢山集まって。誰々さん、何々さん。けれども、合楽の、おかげの泉も、日田の綾部さんが、お見舞いに差し上げておられる、沢山一杯。もちろん、私の御理解は、昔から頂いておられるから知っておられますが。おかげの泉を読めば読むほど、分かれば分かるほどです。どの宗教書よりも、合楽のおかげの泉は、素晴らしいと言うて、佐田さんにそれをしきりに言われた。
これは親先生が言われるように、もう絶対親先生の言われる事は、お釈迦様も説き得ていなかった、キリストも説き得ていなかった。これだけの本を読ませて頂いてです。おかげの泉はなるほど読み難い。しかも言うならば私のお話が、そのままですから言葉も、幼稚な言葉ばっかり使っておるけれども。その、底に流れておるものはです。釈迦もキリストも説き得てないことを言うておられる。
とにかく合楽の信心な素晴らしい。とにかく一遍合楽には早くお引き寄せを頂きたいから、その事をお願いしてくれと言うお願いがあった。例えば今のこの御理解三節なんかはです。もうこれは絶対ほかの宗教宗派じゃ説き得ない事が書いてあります。それを今日は私は概念的に説いたわけですけれども。天地金乃神と申す事は、と言う事を先ず分からせて頂く所から、分かれば分かるほど。
親孝行はしなければおられない。親教会はだいじにしなければおられない、師匠を大切にしなければおられないと言う事になるのです。金光教の信心のほとんどがです。親教会をだいじにしなければならん。親先生を大事にしなければならん。だから形の上では、それをだいじにしておるけれども、本当のことが分からんなりしよるから、おかげは一つも頂きよらん。
そこで先ずは一つ親不孝の運動を起して、先ず親に不孝をして神に孝行をする事を先ず覚えてそして後に、親孝行をする運動を起したらどうだろうかねと言うて、この頃の先生方に聞いてもらったようにです。そこのところを今日は聞いていただきました。そして、今、合楽で言われておる時限活動と言うものが、どう言う様な性格を持っておるものかと言う事も、聞いて頂いた訳ですね。
どうぞ。